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【こだま】2024年 7月


もくじ
・こだま寄稿
   山の書を読もう・・・安全登山を念頭に(KuriG)
・7月の例会
・新規掲載の山行ブログ


【こだま寄稿】山の書を読もう・・・安全登山を念頭に
 寄稿:KuriG
 2024.07.20

 登山という趣味は体を使うという意味においては「スポーツ」の要素が多いにあるけど、それだけでもない。歴史、地誌、風俗などの「文化」の側面も無視しがたい。とにかく領域の制限もない。まずは乱読でいいと思う。

 最初の山の本の記憶があるのは、中学1年生のとき学校の図書館にあった京都大学 AACK の『ノシャック登頂』(1961) だ。当時は未踏峰がゴロゴロとあった。昭和30年代は US ドルが 360 円の時代で○○登山隊と云わず、○○大学○○学術調査隊と隊名がついていたことを子供ながらに不思議に思っていた。あとで外貨枠獲得のためと分かったが釈然としなかった。官民の差別・本音と建前?
 なぜまず乱読を勧めるかというと、興味が湧いた本を片っ端から読んでみると、次々に山岳の「世界」が広がって行くのです。まずは追体験で夢が広がった。ちょうど中学生の時代は昭和30年代だろうか。第2次 RCC の後期だったであろうか。
 古川純一(ベルニナ山岳会⇒日本クライマーズクラブ J.C.C.)、奥山章(日本山嶺倶楽部)、松本龍行(雲表倶楽部)、吉尾弘(アッセントクラブ)、南博人(東京雲稜会)らに代表される社会人山岳会が大活躍した。
 一方の雄であった大学山岳部(OB 会)は海外登山へ向かった。その時代の詳細は日本山岳会の年報を参照するとよい。
 海外にゆけない社会人山岳会は国内で登攀技術を飛躍させた。その成果は第2次 RCC 編『登攀者』(1963) にまとめられた。さらにその集団と化したパワーがヨーロッパアルプスの北壁へ向かわせた。1965年の登攀活動だ。第2次 RCC 編『挑戦者』(1965) にまとめられた。現地では事故もあったから神風クライマーとさえ報じられた。国内で培った登攀技術が本場アルプスで通用することを立証してみせた。
 アルプスに行くことが叶わなかったあの森田勝は、谷川岳一ノ倉沢滝沢第3スラブでその憂さを晴らすかのように積雪期初登攀した。新聞夕刊にも報道されたし、記録は 1967年『岩と雪』通巻第9号に詳しく掲載された。

 私たちの安全登山のために山岳遭難にも目を配ろう。身近なところでは神奈川労山の 1984年12月30日 川崎芝笛クラブパーティが鹿島槍ヶ岳東尾根第二岩峰手前コルに設けられた雪洞が全層雪崩により全員巻き込まれ、北又本谷に流されていった。35歳、38歳、27歳2名、26歳、25歳の計6名の将来ある若者たちの痛ましい事故であった。『攀龍附鳳 1984◎鹿島槍ヶ遭難報告書◎追悼集』に詳しい。6人目の回収は8月1日だったという。当会からはさんも捜索隊に参加していたという。
 その 20年前には、1964年12月26日から入山した昭和山岳会の5名全員の遭難記事で私が中学生時、正月の新聞で大騒ぎとなった。南アルプス赤石山系悪沢岳で事故が起こった。これも雪崩事故だ。リーダーは秋田県出身の中学教師だったと思う。ネットで『荒川岳遭難報告』(1967)、そのレポートの一部が参照できる。そのなかに森田格(ただし)がオブザーバー参加していた。彼は積雪期鹿島槍ヶ岳北壁直接尾根、同谷川岳一ノ倉沢滝沢リッジ初登攀、そして 1962年全岳連主催のネパール/ビッグホワイトピーク(6979m)3次隊初登頂など。福生市出身の都庁で林務関係の職員だった。いずれも捜索は雪解けの7月までを要した。
 他の積雪期の事故としては、松濤明『風雪のビヴァーク』(1950) があまりにも有名なので読んだ会員が多いのでは? 死と向き合って綴った手記は一読してほしい。もう一冊が 1965年3月 14日、北海道日高で大きな雪崩に遭遇した沢田義一の遺稿集『義一 日高に逝ける登山者』(1966)、沢田のお父さんらを中心にまとめられたと思う。読んだような気がするが持っていない。(注:このあたり記憶に自信がない。)北大山岳部『雪の遺書』(1966) で死をまえにした雪の中で綴った4日間の手記は読むに値する。あまりにも生々しい。享年 24歳。
 1963年1月、愛知大 13名全員の薬師岳気象遭難。報告書『薬師』愛知大学山岳部薬師岳遭難誌編集委員会編は5年を経た 1968年に刊行された。同誌のなかで、東京徒歩渓流会の杉本光作の学長様宛に書かれた手紙が掲載されていた。紹介できないのが残念だが、1963年2月9日付の手紙のなかで、実に冷静かつ的確な助言ともいえる謙虚な内容だった。杉本は東京下町の老舗山岳会で特に戦前の谷川岳で活躍した社会人山岳会東京徒歩渓流会の中心メンバーで  1980年没。『私の山谷川岳』(1981) を遺した。戦前に東京徒歩渓流会著『谷川岳』(1936) を発刊した会でもある。
 1967年8月1日 松本深志高校集団登山中の西穂高岳独標付近での水平雷撃事故、いずれも前途ある若者たちの事故だった。これは西穂遭難追悼文集『独標に祈る』が深志高校により纏められている。私は当時信州大学在学時で市内のこの高校に行き手に入れた。教育県と言われた長野県は教育熱心で高校に浪人してでも上位進学高を目指すとか地理的に通えない生徒は下宿もいとわないということを聴いたことがある。都内で家族と暮らして育った私には考えられないことだった。この事故で2年の生徒 11 名が亡くなった。

 自分たちの安全を確保するうえで、広く心の問題としても大切なことを学ぶという面で、山の本をぜひとも読んでほしいことと思っている。事故が続いている当会としては、まずは講習会よりも前に「生まれも育ちも違い、山の考え方、安全の考え方も違う集団に対して」マインド醸成を第一に取り組む必要があると思う

 地元相模大野に県立相模台工業高校の地理教師だった広島三朗(町田高出身)がいた。これも古い記録だ。1979年  K2 登山隊を推進した方で登頂もしている。時代遅れともいわれた大がかりな登山隊であった。寄せ集め隊で、その中に森田勝もいた。しかし、彼は1次登頂チーム選ばれず勝手に上部キャンプから下りてきてしまう。冷静に考えれば2次登頂チームの方が登山隊としての登頂確率はとても高くなるが…。「私の登山は終わりました」と BC の通信機に答えて下りてきてしまった。登山隊の公式記録の DVD が手元にある。画像と音声が残っている。翌年 1980年2月、彼はグランドジョラスで墜死した。一方広島は 1997年カラコルム・スキムブルム峰 7360m 登頂後、下山時就寝中の BC で氷河崩落時に発生した高圧の爆風を受け亡くなった。享年 54歳。
 同行していた K2 の同志ともいえる当時副隊長だった原田達也もその時亡くなった。享年 62歳。

 大阪労山に「山岳同人チーム 84 の榊原義夫」がいた。2003年 10月7日 大阪凍稜会の M.M. とともにネパールエベレスト街道沿いに聳えるチョラツェ 6440m を登攀中に突然ルートの岩の連鎖崩壊に出くわし埋まってしまい亡くなってしまった。遺体回収には翌月 11日にチーム 84 の平岡竜石(注:今年の6月にスパンティークで亡くなった。)が現地ガイドらを率いて 11月22日には遺体をカトマンンズの病院に収容した。2005年10月に大阪で偲ぶ会が開かれた。そこで『風の彼方に 榊原義夫の軌跡』が配布された。
 1998年2月、大阪労山積雪期中級登山学校では伯耆大山縦走があり、参加したコーチにアイゼンを忘れたものがいた。前述の榊原だ。頂上から先は腰が引けるようなナイフリッジをゆく。大阪労山救助隊長の青木啓一が片足分を彼に渡した。この日、実は広島山の会パーティが北面の墓場尾根で事故が遭った。ヘリが飛来した。頂稜から赤いウェアが見えた。高見和成らと後で知った。彼の著書『雪の谷 山の声』(1994) には、岸洋子との交流の手紙のやり取りも掲載されている。伯耆大山東面振子沢への雪崩滑落から生還の記事もある。これもナンダデヴィ縦走やラトックⅢ峰登頂とともに読みごたえのある1冊と思っている。

 2011年10月2日に一ノ倉沢衝立岩雲稜第一ルートに単独登攀で取り付いた大阪福島労山の O.Y. 55歳が懸垂中に墜死してしまった。沼田警察署の遺体安置室ではハーネスの先、デージーに安環付きカラビナに千切れたかなり古いアングル型リングハーケンが残っていた。そしてN字型に伸びきったロープが遺されていた。登り返し着地点で何かが起こったのだ。
 2012年1月には大堂海岸の帰路の登り返しで福岡出身の大阪 YMCC の T.T. 女性が滑落死してしまった。
 2012年8月には四国石鎚山の沢で信州東部出身の夫と遡行中に奥さんが滝つぼに落ちたが、救助できなかった。二人で熱心に四国の沢を遡行し遡行記をよくまとめて発表していた。後に彼は愛媛労山会長を歴任。2008年に四国遍路で泊めてもらい再会を果たした。
 2013年2月24日には当会の女性会員 O.K. が八ヶ岳稜線で亡くなった。事情があって追悼&報告書を仕上げることができなかった。なんとも後味の悪い残念な事故の始末となった。当会の会員には語り継がなければと思う。
 2014年5月10日に大阪ぽっぽ会の S.M. 55歳女性が不動岩での懸垂中のスッポ抜けで落ちて亡くなった。女性らしいしなやかなクライミングスタイルの方だった。落ち着いた方でミスをするなどあり得ないと誰もが思っていた。
 2019年2月10日 大阪ぽっぽ会の K.M. 59歳女性、宝剣岳サギダル尾根を経て南陵から宝剣岳に向かう縦走路で転倒し、左側の宝剣沢C沢に約 300m 滑落して死亡した。随分前になるが、糸魚川の明星山南壁に数人で行ったことがあった。
注:文中の大阪ぽっぽ会は KuriG が、大阪転勤後延べ 18年在籍した山の会。

 2009年7月にトムラウシ山のツアー登山で典型的な気象遭難ともいえる遭難事故があった。たまたま勤務先の定年旅行を利用して妻と利尻・礼文島に旅行していた時だった。利尻登山では雨でカッパを着ての登頂だったし、礼文ではミニハイクコースの桃岩では強風で 40 キロもない家内は飛ばされそうになったほどだった。礼文で友人からの携帯電話でその事故を知った。後日公式ともいえる『トムラウシ山遭難事故調査報告書』(2010.3.1) をみることができた。巻頭の「トムラウシを他山の石として(事故調査特別委員会座長 節田重節)」という文章のなかで、参考にしたい一文を引用しよう。

 “ツアー登山といえども一般の登山と同じく、そのフィールドは美しいが、厳しく恐ろしい自然が相手である。安全に楽しむためには、自ずと知恵が必要であり、守るべきルールがある。特にそれは危機的状況においてこそ、よりシビアでなければならない。もちろん、組織にしても、個人にしても然りである。そして、「山登りの実力」とはピンチにおいてこそ発揮されるべき力である。”

 このページの最後にさらに心に刻むいい言葉を見つけたので、紹介しよう。

 1955年、世界第5 位の高峰、マカルー(8470m)に初登頂、しかも全員登頂という快挙を果たしたフランス隊の隊長ジャン・フランコは記す。「山は根気強い勤勉さと、沈着と、頑張りの学校だ」と。それはまた、山という自然に対して「謙虚さを学ぶ学校」でもある。

 今一度こういった言葉をしっかりかみしめて山岳活動を心がけたいものだと思った。

以上(文中氏名は敬称略)
2005年8月 入会
2013年7月から2016年6月 会長

【追記】
1. 愛知大学山岳部の遭難報告書『薬師』のなかで記載されていた学長様と宛先を記した杉本光作氏の手紙を別ファイルにて掲載する。ぜひこちらから参照してほしい。
2. 今回の文章とは直接関係はないが、2017年に労山大阪&兵庫の50周年記念のヒマラヤ登山隊、『西北ネパール・フムラ地区の Nyalu Lek 山群の未踏峰登山の報告書』の一部を別ファイルにて掲載する。ぜひこちらから参照してほしい。

(了)


【7月の例会】

日時:7月10日 19:30~21:30
場所:相模原市大野南公民館
出席:UTi(司会)、しんご(議事録)、なべさん、純、みず、tam、しんめい、かず、たけ、佐和ちゃん、Kimi、もん、Chai(13名)
見学:5名

例会後の懇親会

何時もの処


【新規掲載の山行ブログ】

◆ 2024.06.01     小菅川本谷 (Tatsu)
◆ 2024.07.20 – 07.21  安倍川 白ん沢の大滝 (しんめい)


おわり

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町田、横浜、大和、座間、海老名、八王子に在住し、
様々な登山ジャンルで活動している地域山岳会です。

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