【こだま寄稿】
登山再開の契機となった
初めてのネパールトレッキング
【こだま寄稿】登山再開の契機となった初めてのネパールトレッキング
寄稿:KuriG
2021.02.02
38 歳のとき転勤で大阪暮らしとなりそれまでの生活が大きく変わった。そして 43 歳のとき勤務先にできた休暇制度を利用して、かねてより考えていたネパールトレッキングが実現できた。28 年前のことである。
そしてこれをきっかけに 1994 年に大阪ぽっぽ会というクライミング中心の山岳会に加入することになった。相模 AC には転勤を機に 2005 年に入会したが、その後も大阪に勤務地が変わったりしたが、2010 年には勤務先を退職し、相模大野の自宅に戻ることができた。
この先 2~3 回、海外登山関係の画像を紹介したいと思います。海外登山やトレッキングに興味のある方のヒントになればと思います。
私個人のブログ内カテゴリー「海外」に掲載していますので今回は現地の人々、とりわけ子どもたちに絞り、重複を避けながら画像をピックアップしてゆきたい。特に海外登山では山奥の人々の暮らしに触れることができるアプローチをするので、少ない経験ながら紹介してゆきたいと思う。
今回は初めてのネパールトレッキングを紹介します。
行く先は 1993 年 GW に定番コースのひとつ、カトマンズから比較的近いランタン渓谷を選んだ。初めてなので自由度の高い手配旅行とし、現地ガイドと行動した。一眼レフ OM2 のフィルムカメラと8ミリビデオカメラを持参した。
ネパール・カトマンズ・ランタンコースの地図画像は次のとおり、参考まで
ネパール
カトマンズ
ランタンコース
4/25 成田発 ➡ バンコク(泊まり)経由
カトマンズの空港への機上からは童話にでてくる箱庭のような風景を眺めながらトリブヴァン空港へ着陸。
1993.4.26
カトマンズ市内の女子高生
その後ろには 20 年以上は経過している中古カローラ 1100 が写っている。現在のカトマンズ市内ではインド製マルチスズキの小型車が席捲している。
市内で見かけた裸足の子供たち①
市内で見かけた裸足の子供たち②
市内風景、市内はまるで中世?お寺だらけ
1993.4.27
スタート地点シャブルベンシ 1515m で泊まったロッジ
(HOTEL SNOWLAND TIBETAIN)の母娘と。
ここまではやはり中古のトヨタコロナ、ラジエーターキャップはなし。谷沿いのボコボコ道を走ったが、急斜面の山腹では樹木は刈られて裸の斜面ですべて段々畑となっていた。
シャブルベンシの子どもたち
1993.4.28
歩き始め第1日
レムチェ 2440m の HOTEL LANGTANG VIEW で昼食、エッグヌードル 25Rs、茹で卵 8Rs。女主人と男の子
(3円/Rs.、現在では1円/Rs.)㊟カトマンズの床屋=当時 30 円程度
お店の女主人の息子さん、口の周りの汚れがなんともかわいい。
樹林帯を登っていくとグムナーツォキ、
ポツンと1軒の山小屋、山中のロッジのファミリー
二人の女性はチベット人顔、女の子はハーフみたい。
泊まったのはゴラタベラ 3000m の小屋
撮ったのは子どもたち、この時期は国の花シャクナゲが満開。
日本のものと比べて幹が太く大きい。牛はこの木には寄りつかない。
1993.4.29
ランタン村を見渡せるところにある売店
ビールも Pet 水も同じくらいの値段。
常駐部落ランタン村の中心地 3514m
昼食はこの村で摂った。茹でたジャガイモは美味しく、サツマイモみたいな?忘れられない色と味?だった。頼んだものがでてくるまで1時間以上かかった。急ぎせかすのは日本人であるからかとつくづく思った。
ここの村はチベット仏教を信仰するタマン族。ネパールはインドほど厳格なカーストではないにしてもカーストがあり、人々は住む高度によりミックスないしは異なる民族がいたりして、いわゆる複合多民族国家を形成し、私たちにはとても理解しにくい。
2015 年4月 25 日に発生したランタン大地震 M7.8 でランタン・リルン上部から氷のブロックが崩れ、雪崩も誘発し、村の北側に位置する大障壁も巨大な地滑りで大きく崩れ、ランタン村は埋まり壊滅的な被害を被った。ここの村にはいるとよくわかる。ブロックが落ち大障壁が崩れたらどうなるか、現実になってしまった。
トレッキングガイドはグルン族のピタンバル・グルン(右)、
彼が連れてきたポーターは叔父さんのダナ(左)
ランタン村の男の子、この子も裸足だ。
最奥の常駐部落キャジン・ゴンパ 3840m、お土産屋のクチ八丁のオバちゃん、
泊まったロッジはホテルマウンテンビュー
1993.4.30
ランタン渓谷の盟主ランタン・リルン 7245m
ポーターのダナ 34 歳
かれの視力はとんでもなく優れており、この日は広く明るいU字谷ランシサ・カルカ 4125m まで遡ったが、帰路にカメラのフィルターを失くしてしまった。彼はなんと戻って捜して発見し持ち帰ってくれた。ビックリした。
ペンタンカンポリ 6830m
往路左岸には個性的な山容のヒマラヤの山々が続いた。
ランシサ・カルカから往路をターンした。トライアングル峰、この方向やや左くらいか。中国領のシシャパンマ 8013m があるはずだが、残念ながら雲が広がり見えなかった。
ヤクを見かけた。
帰路に眺めたリルン氷河の懸垂氷河
1961 年の大阪市大隊第1次登山隊はここをルートに稜線まで達したが、C3 で就寝中に雪崩に襲われ隊長と隊員の2名とシェルパ1名を失った。
1993.5.1
ランタン大地震前の姿を見ることができる。2015 年に埋まってしまった。
ゴラタベラの女の子
家事手伝い弟や妹の面倒など実によく働く。私の赤いパイルの靴下をどうしても欲しいと意思表示してきた。けなげな女の子だった。小屋では奥さんがよく働く。だが主人は働かない。
ラマホテルにいた色白の女の子
人懐こいいい子だったが、汗臭かった。
ラマホテルの男の子
柿の種が気に入って何回ももらいにきた。
ラマホテル バッティ(茶店)の母と娘&ガイドとポーター
1993.5.2
シャブル 2230m の子ども
シャブルの子ども
チベット仏教徒の色の服を身に着けたとてもかわいい子どもたち
シャブルの子ども なかなかおしゃれ
訓練行動中のネパール国軍 前列中央が隊長だ。
ずっしりと重い小銃を持たせてくれた。
売店の母と娘
シャブルにて 兄に背負われた弟 道路が通じているドウンチェ 2040m に到着。
1993.5.3
泊まったのはトリスリバザール
1993.5.4
木の実を買いにきた小さな女の子
後ろに写るベンツのトラックはインドの工場で組み立てられると聞いた。
泊まったのはトリスリバザール
私はシャワーを浴びて汗を流して白い綿のTシャツを着ることができた。カトマンズへの帰路、途中道端にある食堂に立ち寄ったが、痩せっぽちで小柄なダナの食べっぷりは半端ではなかった。現地の定食はダルバート、ごはんは大盛りお代わり自由、それも彼のは超大盛り。彼らの食事は1日2食である。
➡ カトマンズ(泊まり)➡ 5/6 早朝、成田帰着
次回は知り合いと3名による連続3年にわたるインドヒマラヤ登山隊での抜粋画像を紹介したいと思っています。インド最深部ザンスカール登山のキャラバンは忘れがたいものだったし、チベット国境に近い極西ネパールの登山についてもそうだ。
子どもたちや珍しい風俗にも焦点を当てたい。画像はいっぱいある。
現在のカトマンズは大きく変わった。舗装道路が増えた。カトマンズ盆地で市街地、住宅地がとても拡大し、人口も増え水不足が深刻化しているし、盆地に排気ガスなどで淀む大気汚染も深刻である。一方で辺境との格差はさらに拡大しているのも実態だ。またローカルからカトマンズの学校に子どもを送っている家庭もとても目立っている。
以上
【参考図書・文献等】
①ザ・ヒマラヤトレッキング 中村みつを…絵、中村昌之…文、山と渓谷社刊(1990.4.1)
②TREKING IN NEPAL中野 融、山と渓谷社刊(1991.7.1)
③JAC山岳1960年度 ランタンヒマール紀行-サルバチュメ登頂(1958)・・・報告者:飯田山岳会 山田哲雄(当時信州大学理学部地質学教室)
④JAC山岳1962年度 ランタン・リルン登山隊(1961)・・・報告者:広谷光一郎
⑤ランタン大地震関連の2015阪大被害調査レポート
(了)