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【こだま】2022年 8月


もくじ
・こだま寄稿
   海外登山(1) 初めてのインドヒマラヤ
   私はなぜ山に登るのか
   遠くの山プラス諸々
・8月の例会
・新規掲載の山行ブログ


【こだま寄稿】海外登山(1) 初めてのインドヒマラヤ
 寄稿:KuriG
 2022.08.22

 中学1年のとき学校の図書館で AACK(注1)によるヒンズークシュ/ノシャック 7490m 登頂の本を手にして以来海外登山の夢を持ったような気がする。当時のヒマラヤは 1956 年に JAC(注2)主導による国策登山隊ともいえる 8163m 峰のマナスル初登頂を成功させた。海外遠征には外貨制限もあり学術調査を冠した大学山岳部関係者を母体にした登山隊(〇〇大学〇〇学術調査隊)が繰り出した。
 当時の国内の登山界は山岳会の枠を越えた同人 RCCⅡ(注3)を中心により困難な登攀を目指す積雪期の初登攀が活況を呈した。労山的に云えば US ドルが 360 円の時代で、外貨割り当て、資金調達や登山許可手続き、日程的に実現が難しい社会人山岳会には差別を感じた時代でもあった。
 社会人山岳会の多くはヨーロッパアルプスの著名な北壁ルートを中心に目指して、国内の難ルートを競うように成功させ登攀技術を向上させていった。当時大挙して遠征したヨーロッパメンバーに乗り遅れた森田勝らが、1967年2月に谷川岳滝沢第三スラブの冬期初登攀に成功し、一般紙に報道されたことを記憶している。

 一時期ネパールが登山隊の受け入れを閉ざしていた時期があった。その時はインドヒマラヤや南米アンデスなどがその代替え的な登山隊の対象となった時期があった。

 インドヒマラヤには3年連続同じメンバーで訪れた。この計画には 1974 年の長野労山のインドヒマラヤ登山報告書が参考となったし、佐久アッセントクラブのK津さん、豊橋山岳会のK田さんと進めた。K津さんは小川山廻り目平岩塔群の初期開拓者の一人でムササビルート初登者の一人となっている。ネパールの 7000m 峰にK藤K美さんらと初登頂したこともある。K田さんは JAC 東海支部のカラコルム K2 登山隊に支援隊員として参加。若き日に冬の北鎌尾根に執拗に取り組みその様子を1冊の本に仕上げている。国内の留守宅を引き受けてくれたのは 1974 年に長野労山のインド登山隊の隊長として2か月半にわたり現地で頑張り、若き日に県連理事長も務めた元高校教師のM田T吉郎さん。高校教師もやめた。登山故に離婚もしている。彼は 1971 年の信州大隊の 7937m アンナプルナⅡ登山隊にも参加していた。廻り目平のガマルートの初登者としても記録されている。

 われら団塊世代のK田さんは心臓弁幕の病、K津さんは消化器の辛い病、私は心臓と頭に基礎疾患を抱えている。登山隊の隊長は年長のK田さんが隊長を勤めてくれた。いまだにK田さんはチベットへ行こうと誘ってくれる。最も年長のM田さんはいま上田市に住んでいるが、加齢・糖尿病などでもう廻り目平でも見かけない。

 1回目のインドは 2010 年で元全国労山会長の森田千里さんから見せられた1枚の写真から始まった。名前は分からない。未踏峰で 6000m 前後らしい。行ってみないと分からない。

 インド北部のリゾート地として知られるマナリをベースにした。ここはバシスト村にある元全国労山会長森田千里さん所有の安らぎの山荘 風来坊だ。裏には現地旅行社マルコ・ポーロインディアを経営するサンペルの新築の立派な家がある。彼の奥さんは大和市の高座渋谷に実家があるJ子さんだ。ご主人のチベッタン、サンぺルとの間にお二人の男女のお子さんがいる。
 ダルチャでラダックのレーに至るガタガタ道から分かれてパラモに集結して Miyar Nala から BC 目指しキャラバンがスタートした。結果からいうとこの時の登山は ABC(注4)を経て 5000m まであがり、私が 4800m のハイキャンプで夜間に高山病を発症した。日本で出発前に対策を講じておいたのに。体を起こしていないといけない。とても苦しく辛かった。深夜なのに横になって寝られない。高所障害である。翌日のアタック日は一緒に行けるどころではなく一人テントに残って下っては登り返すなど復調につとめた。頂上アタックに向かったパーティは 5500m を越えると多量の新雪に進行を阻まれ登頂を断念することになった。還暦弱小登山隊である。
 雇用したサーダーは普段野菜づくりをしている農家の人で登頂サポート要員でもある部下2名、キッチンは2人、IMF(注5)派遣のリエゾンオフィサー1人、馬方2名、ラバ、馬が約 15 頭、毎日サーダーと食堂テントで打合せしながら駒を進めた。私はチャパティを主食とした。皆は食べたがブルーシープは遠慮した。
 用意したフィックス用ロープ 1200m、スノーバーやアイススクリューなどの登山装備は使用することなくこの登山は試登に終わった。ただ咲いているエーデルワイスの絨毯の上を申し訳なく歩いたり、ガレ場では珍しいブルーポピー(青いケシ)をみつけることもできた。マナリ北側の峠ロータンパス 3980m の向こうは宗教がヒンズーからチベット仏教へと変わり人種も変わった。アプローチではとんでもなく大きく露出していた褶曲断層もみてこのヒマラヤが褶曲山脈であることが実感できた。

 1枚の写真と大雑把な地図で出かけた大雑把な還暦登山隊の登山はこれで終了となった。こういうこともある。しかし外国人として未踏の地に足を踏み入れることの喜びは味わうことができた。この経験をもとに翌年は懲りずにここから北側のインド北部最深部山域となるザンスカールの未踏峰を目指してこの登山隊は入域することになる。

 〇今回の日程:2010年6月27日成田a/p出国➡8月7日成田帰着(40日間)
 〇今回入域したエリア:マナリ北方のヒマチャルプラディッシュ州北部山域

注1. AACK(Academic Alpine Club of Kyoto):京都大学学士山岳会
注2. RCCⅡ(Rock Climbing Club the Second):第二次ロッククライミングクラブ
注3. JAC(The Japanese Alpine Club) :日本山岳会
注4. ABC(Advanced Base Camp ):前進ベースキャンプ
注5. IMF(Indian Mountain Federation):インド登山財団

[ デリーと基地にしたマナリの位置 ]

[ マナリから最終位置(車移動とキャラバン・登山)]

【追記】
 3年目は 6000m のディオティバに行ったが稜線に抜けると、6446m のピラミダルな白いホワイトセール峰を眺めることができた。三角錐をすこし捩った美しい形で周囲の峰を圧して見えた。1941 年イギリス隊により南稜から初登頂された。1992年8月15日にさんら4名の登山隊がバラ・シグリ氷河に入り、新ルート南東稜からの初登攀をものにしている。その様子は相模労山 20 周年記念誌「黎明」で参照することができる。今年の8月、ホワイトセール南東稜初登攀から 30 周年を迎えた。

【参考図書】
白い城塞 1974年インドヒマラヤ登山報告書 <非売品>
発刊者 長野県勤労者山岳連盟
発刊日 1975年5月14日
編集者 ’74長野労山インドヒマラヤ登山隊
印刷所 田口印刷株式会社

Indian Himaraya インド・ヒマラヤ
 (注)200年余の外国隊と100年近い日本隊の踏査・登山の足跡のまとめ、INDEX集
日本山岳会創立 110 周年記念出版
編 者 日本山岳会東海支部「インド・ヒマラヤ」出版委員会
発行日 2015年12月1日初版第1刷
発行人 日本山岳会東海支部
発売元 ㈱ナカニシヤ出版 定価本体 6000 円税別

(了)


【こだま寄稿】私はなぜ山に登るのか
 寄稿:ガッツ
 2022.08.23

1984年2月12日。冒険家の植村直己さんが 43 歳の誕生日に北米最高峰マッキンリーに厳冬期単独初登頂。ところが翌日の交信を最後に消息不明になり日本中が騒然となりました。当時は連日トップニュースで報道されていたので、覚えている方も多いかと思います。このとき私は高校入試を目前に控えた受験生で、登山にも興味はありませんでした。
その後、国民栄誉賞を受賞し、映画「植村直己物語」が公開されます。大胆不敵な数々の冒険のエピソードよりも、都会生活が苦手で人一倍臆病な性格や、体力以外には取り立てて優れているわけではない自分自身に対して常に劣等感を持っているところなどに、当時の私は共感した記憶があります。

青春と呼ぶにはあまりにも暗い高校の3年間を終え、何とか大学に入った私は一念発起して体育会山岳部に入部しました。

[1990年8月剱・真砂沢にて。
このころ流行っていたプラスティックブーツを夏山でも使っていた。]

北アルプスや南アルプスでの2週間を超える夏山合宿や、歩荷、雪訓、冬山合宿。植村さんのような屈強な山男になりたい、ヒマラヤサミッターになりたい、などと頑張った時期もありましたが、現実は厳しくうまくいかないことばかり。山岳部を卒業してからは山からも遠ざかり、三十半ばを過ぎ体重も増え、冴えない中年男になろうとしていました。そんな時、かつての先輩からお声がかかり南アルプス南部の沢登りに行ったことが転機になりました。この時は沢の中で2泊、下山でもう1泊する長いルートで、基礎体力のなさから終始先輩の足を引っ張ったものの結果は成功。終わって帰ってきた後はしばらく腑抜け状態にもなったが、何となくこういうことがやりたいのかなと思った。

この体験を機に、それまで漠然とあこがれていた沢登りの世界というものが現実として見えてきた。心の底に趣味でもレジャーでもない山登りをやってみたいという思いがあったのだ。

そんな時、2年制の沢登り専門教室を見つけ、そこに入って技術や知識を勉強することにした。取り寄せたパンフレットには「自立した沢屋を養成するための専門教室」とあった。2000年代中頃の社会人山岳会の募集要項といえば「年齢 40 歳まで、または即戦力」というところが多かった気がする。2年後の秋には 40 歳の誕生日が来るので、その時には一人前の自立した沢屋になっている自分を想像し、40 代を沢登りの世界にどっぷりと浸かって生きていくつもりだった。でももしもなれなかったとしたら、あとは野となれ山となれといったところか。

2007年2月4日。最初の机上講習に集まった同期生は他に 14 人。年齢は 20 代から 50 代で男女比は 1:1 だった。そして3月からいよいよ沢での実技講習が始まる。正月明けからトレーニングを始めて少しずつ体力もついてきていたが、身長 169 センチに対して体重は 83 キロあった。最初の山行でバテてはいけない、というのは妙に意識していたので、行く前は期待より不安の方が大きかった。それでも遅れずについていき「下山は走ってもらうから」と事前に脅かされていた高速下山も無事終了し、とにかくホッとした。

4月5月と順調に講習を重ねていき、6月。梅雨の晴れ間に宮城県の沢で、初めての泊りの沢の講習があった。テン場に着くと「まずは最初にしなければいけないのは、沢の水でビールを冷やすことだ!」と教わった。普段から荷物の軽量化を厳しく指導されていたのだが、やはりビールは持っていくのである。タープを張り寝床を作ると、みなで薪を集めプロの焚き火指導となる。着火剤は牛乳パック。ロウでコーティングされているので燃えやすいのだそうだ。まずは小さく火をおこし圧縮して徐々に大きく育てていく。隙間を作らないのがコツで、絶対にうちわなどで扇いではいけないそうである。煮炊き用のビリー缶は火の上に無造作にジカ置き。途中で採取してきたフキやミツバのおひたしなどを肴にまずはビールで乾杯。後は焚き火を囲んで楽しい宴が夜更けまで続いていく。晴れていれば満天の星空の下、焚き火の横で瀬音を聞きながら寝袋に包まれる。雨が降ったら大変だが。

10月の3連休。岩手・八幡平では燃えるような見事な紅葉や天然きのこ鍋を楽しめたが、最終日の早朝に天気が崩れてしまう。夜中の2時頃に雨が降り出し、焚き火の横で寝ていた数名が慌ててタープに避難してきた。夜が明けるころ焚き火の所を見に行くと、先生は一人シュラフカバーに包まって耐えていた。雨は断続的に降り続き、沢は確実に増水し始める。明るくなると同時に急いで撤収、決死の脱出行となる。沢を詰め上げていけば湿原の登山道に出るはずなのだが、上流に行けば行くほど水量が増え、濁りも出てくる。このまま進むと湿原が巨大な池になっていて身動きが取れなくなると判断した先生は途中から尾根筋に進路を取った。雪国の樹林帯の斜面は密度の濃いヤブに覆われていて、背丈をはるかに超える太さ1センチ以上のネマガリダケの密集したヤブは隙間が全くなく、弾力性のある厚い壁だった。この緑の壁に突っ込みこじ開け、潜って悶えながら上を目指した。背負っている大きなザックは引っ掛かり、足元も滑りやすくなかなか進めない。竹の跳ね返りはムチで顔面を叩かれるようなもので、何度もメガネを飛ばされた。この時は前の人を見失わないようについていくのが精一杯で、途中「小屋が見えます」と幻覚を見る人もいた。ヤブ漕ぎに突入して2時間以上が過ぎ、ボロボロになりながら稜線の登山道に出たときには、メンバーは皆ホントにいい笑顔をしていた。

この頃は、食事制限のダイエットも続けていて余裕で 60 キロ台をキープしていた。普段も仕事が終わると走りたくてうずうずしていた。1年前とは比較にならないほど体力も自信も付いてきて、やや有頂天になっていた時期かもしれない。とにかく前途は明るく開けていた。

(続く)


【こだま寄稿】遠くの山プラス諸々
 寄稿:tam
 2022.08.26

ここ数年連休には遠くの山に行っている。山だけでなくプラス諸々なんですが。

遠くの山はいつか行ってみたいとは思っていたけど、なかなか機会がなかった。
車中泊で山の他に温泉、地の美味しい物、滝見や観光、気になった所に寄り道とどうせだからとつい欲張りになってしまう。運転が好きな訳ではないけど、便利さには勝てない。ゆっくり走って、のんびりゆるゆる山行。
車だと縦走は難しいのでせめて周回出来るところは周回コースをとる様にしている。2台で行ってそれぞれ置ければいいのだけれど、なかなか付き合ってくれる人はいない。

きっかけは数年前の GW。会社の休みが長かった事と、子どもも大きくなり学校がらみや、孫の顔見せもGWじゃなくてもいいのかなと思っていた頃と重なり、長い休み、どうせなら遠くに行ってみたいと思った。

ただこの時はとにかく遠くに自走で行ってみたい。それが一番だった。それで陸路で行ける本土最南端佐多岬に行ってみる事にした。そこまでの長距離を運転するのは初めてなので、本当にたどり着いて帰って来られるのか、渋滞はどんなものか、どの位疲れるものなのかとか、自分自身に未知の部分があったので山は行けたら行こう位だった。
桜島では灰の洗礼を受け、目的の最南端は展望台が工事中で先の方までは行けず、こころ残りになった。
山は開門岳に登った。頂上から見える一面の海を想像していたが、もやってはっきり見えなかった。「今日」がではなくこの時期はいつももやっとしているとの事だった。

[ 佐多岬 ]

ゆっくり走ればなんとかなる!これに気を良くして行く様になった。あと何年何回行けるか分からないので、まずは遠くからと九州の山プラス諸々や東北の山プラス諸々に出かている。
今年は車を買替る予定だったので、最後のご奉公であのあの時行けていなかった最南端佐多岬に行き、祖母山、傾山を登り、プラス諸々を行ってきた。
最後にちょっと紹介、山ではありませんが、大分県に行ったら「白水溜池堰堤」に行ってみてください。下部だけでなく上部からも是非見てくださいな。。

(了)


【8月の例会】

日時:8月17日 19:30~21:50
場所:相模原市大野南公民館
出席:ton(司会)、ガッツ(議事録)、なべさん、純、わかさん、みず、KuriG、tam、ケンタ、史一、しんめい、かず、佐和ちゃん、koji、Tatsu、みほさん、mimi、UTi、Sanae、もん(20名)



【新規掲載の山行ブログ】

◆ 2022.07.02     丹沢50ルート (No.32) 小川谷廊下 (ケンタ)
◆ 2022.07.09 – 07.10  丹沢50ルート (No.39) 沖ビリ沢下降~樅ノ木沢遡行 (miyuki)
◆ 2022.07.16 – 07.18  鬼怒沼のワタスゲと秘湯加仁湯 (ふじ)
◆ 2022.07.24     奥多摩 大塚山 バリハイキング (tam)
◆ 2022.07.26     丹沢50ルート (No.42) 東丹沢 早戸川 冬の円山木沢 (KuriG)
◆ 2022.07.30 – 07.31  川乗谷本谷、丹波川本流~花魁淵 (ton)
◆ 2022.08.08 – 08.10  赤石沢奥壁 Aフランケ赤蜘蛛ルート (ねこ)
◆ 2022.08.19 – 08.21  北岳バットレス~皆で成し遂げた奮闘記~ (佐和ちゃん)


おわり

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会員は相模原・厚木エリアを中心に、
町田、横浜、大和、座間、海老名、八王子に在住し、
様々な登山ジャンルで活動している地域山岳会です。

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