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【こだま】2023年 10月


もくじ
・こだま寄稿
   生まれ変わったら一緒になりたい人(けい)
   私の大峯奥駈道(前編)―2020年10月17日~10月24日の記録― その3(maa3)
・10月の例会
・新規掲載の山行ブログ


【こだま寄稿】生まれ変わったら一緒になりたい人
 寄稿:けい
 2023.08.23

私には、生まれ変わったら時空を超えて一緒になりたい男性が3人いる。
そのうちの1人がサー・アーネスト・シャクルトン。
今回は彼について書きたい。

サー・アーネスト・シャクルトン Sir Ernest Henry Shackleton (1874–1922) とはアイルランド生まれの極地探検家であり、その生涯に3度、イギリスの南極探検隊を率いた人物である。

サー・アーネスト・シャクルトン(1909年以前)

私がシャクルトンを知ったのは、たまたま雑誌の書評欄で目にした A・ランシング『エンデュアランス号漂流』(新潮文庫、2001年)と C・ガラード『世界最悪の旅:スコット南極探検隊(中公 BIBLIO 文庫、2002年)を読んだ際であった。死の際まで英国紳士であろうとしたロバート・スコットの生き方も胸を打ったが、私が心を鷲掴みにされたのはシャクルトンの方であった。その後、関連本を読み漁り、2002年にケネス・ブラナー主演でドラマ化された英国ドラマ『シャクルトン』も視聴した。

シャクルトンとはどういう人物かというと、一言で言えば世界で初めて南極大陸を南極点経由で横断しようとし、失敗した人物である。
1890年、16 歳の時に船員としてキャリアをスタートした彼はその後一等航海士となり、1901–1903年に海軍中尉として、スコットを隊長とするディスカバリー号の南極遠征隊に参加、極地経験を積んだ。1907–1909年には自らニムロド号の隊長として南極遠征を行い、南極点まで 180km の地点(当時南極大陸最南端)に到達した。隊はエレバス山への初登頂も果たし、帰国後シャクルトンはその功績を認められてナイトに叙せられた。
1911年、ノルウェーのロアール・アムンセンが南極点に到達したというニュースを聞いたのち、彼は目標を、それまで目標としていた「南極点到達」から「南極点を経由しての南極大陸横断」に切り替えた。それが彼の3度目の南極探検であり、1914–1917年に行われた「帝国南極横断探検隊」であった。
隊を組織するにあたり、彼が隊員募集のために出した新聞広告の文言がこちら。
「求む男子。至難の旅。
僅かな報酬。極寒。暗黒の長い日々。絶えざる危険。生還の保証無し。
成功の暁には名誉と賞賛を得る。
アーネスト・シャクルトン」
史料的な裏付けがないことから、現在ではこの広告の話はフィクションであったと考えられているが、このような逸話が流布することからも、シャクルトンが当時どういう人物と捉えられていたのかが見て取れる。
これに応じなきゃ男じゃないよね!!!

1914年8月、第一次世界大戦が勃発した直後にもかかわらずシャクルトン隊はエンデュアランス号(「忍耐」号。もう名前からして不吉なフラグが立っている・・・)でイギリスを出発、その年の 12月には南大西洋のイギリス領サウスジョージア島から南極を目指して出港した。しかしながら船は厳冬期のウェッデル海の流氷に阻まれ、南極大陸に行き着くことができず、翌 1915年1月には全く身動きができなくなった。シャクルトンは9月に春が訪れれば船が脱出できるようになることを期待し、越冬体制を敷いたが、10月には船が浸水、シャクルトンは船の放棄を決定し、隊は氷上キャンプをすることを余儀なくされた。

エンデュアランス号

ここまでの経緯を見ると、この遠征はただの計画性のない、無謀な冒険に見えるのだが、その後のシャクルトンの獅子奮迅の働きがすごいのである。11 月、完全に沈んだ船を捨て、海氷上にキャンプを張った彼は氷を越えて 402km 離れたポーレット島に向かおうとするが、その試みに失敗。紆余曲折の末、翌 1916年4月に全員で救命ボートに乗り移り、エンデュアランス号が沈没した地点から557km離れたエレファント島に上陸する。しかしながらこの島は一般航路から遠く離れていたため、救助が望めないと判断したシャクルトンは、最も信頼する部下5人のみを連れてジェイムズ・ケアード号(と名付けられたわずか 6.1m のボート)に乗り込み、同月 24日、サウスジョージア島まで 1333km、15日間の航海を行う。

エレファント島から出発するジェイムズ・ケアード号

一堂は暴風に行く手を阻まれながらもサウスジョージア島への上陸に成功。その後、島の反対側に位置する捕鯨基地までの陸地横断を試み、3名を残した残り3名のみで、51km を 36 時間かけて踏破し、1916年5月20日、捕鯨基地に辿り着き、救助要請に成功した。シャクルトンはまず島の反対側に残してきた3人の隊員を救出したのち、エレファント島に残る部下 22 名の救出のために救助隊を組織、何回かの試行錯誤ののち、最終的にチリ政府から遠洋航海可能なボートを借りてエレファント島に向かい、1916年8月30日、孤立していた残りの部下を1人も欠かすことなく全員救出することに成功、本国に連れて帰ったのである。

しかしながら彼のその後の人生は必ずしも幸せなものではなかった。帰国後賞賛され、英雄となったシャクルトンは何度か軍人として職を得たが、その結果ははかばかしいものではなく、金銭的にも常に困窮していた。彼は難局(南極?)においてこそ真価を発揮する人物であり、平時向けではなかったのである。1921年、彼はシャクルトン・ローウェット隊を率いて最後の南極遠征に出発したのち、サウスジョージア島で心臓発作で死去した。

サウスジョージア島にあるシャクルトンの墓

以上が彼の一生であるが、彼の何が素晴らしいかというと、絶対に部下を死なせない、生きて故郷に連れて帰るという強い意志、それを成し遂げるだけの判断力、行動力、決断力、突破力である。
そして部下が「生きて帰れる」と信じられるだけの人間的魅力、リーダーシップである。
極地探検は非常に困難な試みだが、生きてさえいれば何度でも挑戦できる。
でも生きて帰ってこなければ再挑戦はできないのである。
彼はそれを成し遂げた。
リーダーってこうあるべき。
人を連れていく立場の人はすべからくこうあるべき。
スコット隊の一員であり、1922年に出版された『世界最悪の旅』の著者であるガラードは次のように言う。
「科学調査と地理調査を組織化するならスコット。冬の冒険ならウィルソン。極点に急いで行って来るだけならアムンセン。でも地獄から抜け出したいと思うなら断然シャクルトンだ。」
皆さんは誰について行きたいですか?

ただ、彼は人格的には相当に問題がある人物であった。
次から次へと打ち立てる儲け話の山師っぽさときたら、投機的を通り越してただの博打であった。タバコ会社の設立、切手の販売計画、鉱山開発計画への出資、どれも失敗した。
常に多額の負債を背負っている。収入源が絶大なる大衆の人気を背景とした講演収入くらいしかない。
金銭感覚もおかしい。特にそれが人の金の場合には。
仲間を救助に行く時だって「俺が!俺が!」感がハンパない。ヒーローになりたいだけとしか思えない。
自己承認欲求の塊である。
女性に関しても節操がない。
南極に向けて出港する際に見送りに来た妻と愛人が鉢合わせたり、南極からの帰還後も大人しく家に帰らず、ロンドンでアメリカ人の愛人と同棲してふらふらしていたりしていたという。
彼が南米で亡くなった時、「帝国南極横断探検隊」のメンバーであったハッセーが遺体を本国に持ち帰ることを申し出たのに、妻が「サウスジョージア島に埋めといて」と言って、その地に埋葬されたのも、妻に愛想をつかされていただけなのではないかと勘繰ってしまう。

しかしながら「帝国南極横断探検隊」で帰還したメンバーのうち、その時の給与が未払いであったにもかかわらずその後のシャクルトンの探検隊募集に手を挙げた者は枚挙に遑がない。
ニムロド遠征の帰路、食糧不足の折に病床に臥した副官のフランク・ワイルドは、シャクルトンがその日の割り当てビスケットの半分を彼に与えたことに対し、「世界中の金を積んでも、そのビスケットと換えることはできない。そして私はこの自己犠牲を決して忘れない」と述べたという。
「帝国南極横断探検隊」でエレファント島を目指している航海中に手袋を無くした隊員ハーレーにシャクルトンは自分の手袋を与え、自身は凍傷になったと言われている。
そして前述のワイルドは死後、シャクルトンのそばに埋葬されることを望み、墓の右側にその遺灰が埋葬された。彼の墓碑には「シャクルトンの右腕」との文言が刻まれているという。
シャクルトンの死後、ロンドンの聖ポール大聖堂では国王や王族が臨席して葬儀が行われ、借金しか残さなかったシャクルトンの遺族のためにはシャクルトン記念基金が設立されたという。
この両極端な人間性、破綻っぷりってなんなんでしょう?

私の周りを見ていても、ものすごく強い山屋、クライマーが人間的にも素晴らしかった例ってほとんど見ない。
だいたい皆、山や岩ではものすごく頼り甲斐があって、うっかりすると「・・・好き・・・」って思っちゃうくらい素敵なのだが、下界で会うと「・・・は?なんで??なんでこうなっちゃうのかな〜」という残念な人ばかりである。
そしてモテるので結婚はしているのだが、たいてい女性関係がめちゃくちゃで、家庭は崩壊している(もしくは崩壊寸前である)。
しかもめちゃくちゃお酒を飲むのでたいてい体を壊している(もしくは壊しかけている)。
もうお先真っ暗である。
できることなら岩場で会って岩場で別れたい。
人生レベルで関わるとろくなことにならなそうである。
ということで、時空を超えて生まれ変わってシャクルトンと一緒になれても、きっと1ヶ月くらいで破綻しているだろうなあと思います。
残念です。

(了)


【こだま寄稿】私の大峯奥駈道(前編)―2020年10月17日~10月24日の記録― その3(maa3)
 元会員からの寄稿:maa3

2020年11月執筆

小笹ノ宿から一ノ垰(いちのたわ)

2020年10月20日(火) 晴れ時々曇り
 この日も天気良好。小屋からしばらくは登りとなるが阿弥陀ケ森手前の女人結界門までは緩い登りであった。女人禁制なので、山上ケ岳へ通じるすべての山道は同様な結界門が設置されており入山できないようになっている。

 阿弥陀ケ森まではとても迷い易いとのことなので地図とコンパスを手に慎重に下って行くが、幸い迷う箇所にはまったく遭遇することはなかった。

[女人結界門]

 やがて小普賢岳を緩く登り下るとすぐに大普賢岳の登りに掛かる。左の和佐又から登ってくる登山道を2名の地元の登山者が上がってきて頂上でアドバイスを受ける(このときのアドバイスは、釈迦ケ岳を下って尾根を左手に深仙小屋へ向かう際の目印についてだった。このことが後ほどとても役に立つことになる)。

[大普賢岳山頂]

 大普賢岳山頂からはブッシュ帯の急な下りとなり気が抜けない。さらに緩く下って弥勒岳(みろくだけ)を、そして国見岳へとトラバースぎみにクサリや階段を進むと道は直角に左に太いクサリと共に下降し、やがて絶壁を右手にクサリにすがりながらのトラバースとなる。安全のためトレッキング・ポールをたたんでザックに固定する。ここからトラバース道を稚児泊まりまで 10 分ほどの危険地帯を通過する。
稚児泊まりは平らなスペースでテント泊も可能であるが水はまったくない。少し休憩し、すぐに七曜岳の急登にかかる。七曜岳の前後は、危険な箇所がいくつも現れてコースで最も注意を要する箇所である。コース取りにおいても赤テープや道標を見逃さないようにすることである。

[七曜岳山頂]

 七曜岳から1時間ほどで石柱のサインが現れて、直進すると行者還岳(ぎょうじゃがえりだけ)山頂、左に進むと避難小屋とあるので左へと進む。なお行者還岳山頂へはかなり距離があるとのことで行かないほうが得策であるとのアドバイスをいただいていた。

 やがて行者雫水に着き水で喉の乾きを癒す。この水場はガレ沢の途中から湧いている水場で水量も豊富であった。水を補給してからガラガラの沢を 20 分ほど下ると立派な小屋が目に入る。行者還避難小屋(ぎょうじゃがえりひなんごや)である。小笹ノ宿を発って既に8時間を経過していた。“老い”による要因もあろうが、やはり大峯奥駈道は大変なルートだと悟る。疲れた! 計画では昨日の内にこの小屋に到着しているはずであったのだが・・・。

[行者還避難小屋]

 小屋から一ノ垰までは緩いアップ・ダウンを繰り返す。本日の計画では、楊子ケ宿小屋までであるが、こんな調子では弥山(みせん)すら到達できそうにもない。そこで行者還トンネル西口から上がってくる道と合流する奥駈道出合手前の草地にテントを設営することとした。

一ノ垰から楊子ケ宿小屋

2020年10月21日(水) 曇り時々晴れ
 計画ではこの日、深仙ノ宿(じんせんのやど)まで進むということになっていたがとても無理な状況であることは明白である。少しでも距離を稼ぐため午前5時にテン場を後にした。すぐに行者還トンネル西口から上がってくる登山道が右手から合流すると、さらに弁天の森、そして聖宝ノ宿跡まで約1時間40分ほどで到着した。途中トンネルから上がってきた登山者が5名ほど私を追い抜いて行った。トンネル入口に車を駐車して空身同然で上がってきたのだろうか、足取りが軽やかである。八経ヶ岳ねらいと思われる。こちらは4日目ともなると、なかなかペースが上がらない。ここからは弥山の急登が始まる。ただの急登ではなく、木製の階段が山頂まで延々と続き、1時間45分もかかってしまった。

[聖宝ノ宿跡]

[弥山山頂]

 山頂にはしっかりとした弥山小屋が立っていて、水の補給もできる。1L までということだったが、ご主人に聞くと 2L でも OK とのことで助かった。山頂には登山者が8名ほどいた。ここからは洞川方面から上がってきたという大学生と弥山辻まで共に行動することになった。山を始めて2年ほどとのことであったが、やはり登りのペースはとても敵わない。己の体力の無さに改めて愕然とする思いだった。弥山を発って 25 分ほどで関西の最高峰と言われる八経ケ岳(1915.2m)に登頂したものの、ガスの中で何も見えないので早々に弥山辻へと下る。ここで学生は川合方面へ右折し、私は左手の大峯奥駈道を先に進み楊子ケ宿小屋を目指す。

[八経ヶ岳山頂]

 弥山辻からは下り気味の道で何ということもないが長い。やがて急なガレ場を 50m ほど小コル目指して登ると五鈷峰(ごこみね)の岩場が急に眼に飛び込んでくる。20m ほどの岩峰だが、その基部から右に急下降する道に張られた固定ロープに沿って下降する。ここから舟ノ峠を経て楊枝ノ森までが長い。弥山辻から楊子ケ宿小屋まで3時間30分ほど掛かってしまった。昭文社の地図上では弥山辻~楊枝ノ森まで1時間55分となっているが、ガイドでは、2時間30分となっている。
昭文社の山と高原地図「大峯山脈」は時間が間違って記載されている箇所が散見される。それが 10 分や 20 分の違いでないので注意を要する。

 楊枝ノ森から危なっかしい崖のような急登を 30 分ほど登ると登山道からやや下った所に立派なログハウスの小屋が建っている。楊子ケ宿小屋である。
小屋名はなぜか “楊枝” ではなく 楊子 なのである。
この日終日天気は曇りがちで、予報でも午後からは前線が近づいてくるとのことだったので、早目ではあるが誰もいない小屋にテントを張って泊まることにする。
なお水場はしばらく探し回ったが発見することができなかった。弥山で調達した 2L が役に立った。

[楊子ケ宿小屋]

[五鈷峰]

 この山行ではザックの重量をできるだけ軽くするためにシングル・ウオールのテントを調達した。ヘリテージ製クロスオーバードーム・テントで重量はペグと張り縄を入れても僅か1Kg 以下という優れものである。ただしテント内部の下方4隅に赤字でテント内は火気厳禁と書かれていた。既存のテントでも、基本、テント内では酸欠になるため火気使用は禁止であるのでお決まりの注意書きと認識していたことと、小屋内はとても寒いのでテント内で調理のためガスコンロを使用した。長い時間を掛ける料理ではないので特に問題もなく食事を終えた。いざシュラフに入って眠りに就くために横になると、しばらくして何とも息苦しいことに気付く。酸欠ならコンロ使用中に息苦しかったり、火が弱くなり消えたりするものなのだが。訝ってみても状況は一向に改善されないのでテントを内側から開けて顔を外に出してみた。するととても爽やかで気持ち良い。こんな経験は初めてで、何度となくシミユレーションをした結果、テント内は酸欠であるとの結論に至る。このテントの素材が防水を考慮してあるため(フライが無いので)、通常のテントと比べて通気性が甚だしく悪いため、コンロ燃焼で発生した二酸化炭素がテント下側に滞留して酸欠を招いたものと思われる。二酸化炭素は空気より重いため下に沈殿しているのだろう。危うく命を落とすところであったが、くどいぐらいに表示されている赤字の火気厳禁の文言は単なる注意書きではなかった。

(続く)


【10月の例会】

日時:10月11日 19:30~21:30
場所:相模原市大野南公民館
出席:みほさん(司会)、mimi(議事録)、わたさん、純、みず、KuriG、tam、しんめい、かず、たけ、佐和ちゃん、ねこ、しんご、ガッツ、Tatsu、みほさん、UTi、ふくいち、miyuki、ふじ、issy(21名)
見学:1名

例会後の懇親会

何時もの処


【新規掲載の山行ブログ】

◆ 2023.07.20 – 07.23   北アルプス 剱岳源次郎尾根 (tam)
◆ 2023.09.02 – 09.03  わいわい♪沢集中会山行 (miyuki)
◆ 2023.09.10     那須・苦土川井戸沢 (ガッツ)
◆ 2023.09.16 – 09.18  初めての剱岳は A2 ルートで! (しんめい)
◆ 2023.09.15 – 09.18  穂高 滝谷ドーム中央稜 (ふくいち)
◆ 2023.09.30     つるべで行けた稲子岳 (miyuki)
◆ 2023.10.14     (No.18) 西丹沢のいまむかし (Tatsu)


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会員は相模原・厚木エリアを中心に、
町田、横浜、大和、座間、海老名、八王子に在住し、
様々な登山ジャンルで活動している地域山岳会です。

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